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執筆者の写真FUSAKO SAKURAI

【第3話】ルカニアの風景@バジリカータの旅

更新日:2024年12月29日

【いきさつ】今回、バジリカータ州観光局から全面的な取材へのご協力をいただき、マテーラを拠点に、3泊4日間で、バジリカータ州の魅力を大いに掘り下げてほしいというミッションをいただいた。

 メタポントの駅から、10分ほど車を走らせると、ヘラ神殿に着いた。

車窓からヘラ神殿を望む。 手前は畑。土が赤黒く、いかにも肥沃だ。

ミケーレ氏が車を止めて、背の高い常緑樹の夾竹桃の並木道を少し歩くと、いつの間にか神域に入っていた。まもなく現れた光景に息を飲む。美しい列柱が、ただそこに、こともなげに、たおやかに、立っていた。


夾竹桃の並木の先に現れたヘラ神殿

  今年の5月に訪問した、シチリアのアグリジェントのコンコルディア神殿が、6本×13本の柱のほとんどが残り、威風堂々としているのに対し、メタポントのヘラ神殿も、もともとは6本×12本の柱とポルティコで構成され、多色の漆喰で彩られていたというから、負けていない。いま残っているのは、片側10本と、5本の柱のみ。控えめな分、しっとり落ち着いた京都の古寺のような落ち着きがある。アグリジェントとちがって、静かで人がほとんどいないのがまた良い。


ヘラ神殿は、どこか女性的なたたずまい


10本の柱が遺る奥の列


石灰岩はもろく、2500年を超える時間で少しずつ風化。 修復保存が進められている。

   まだ、観光地化されつくしていない、知る人ぞ知る場所らしく、私とミケーレ氏と、もうひとり散歩をしている男性以外は誰もいない。やわらかい海の風が、そよそよと頬をなでる。 

  

 ああ、こんなところに人が集い、祈りを捧げ、何か商いをしたり、さまざまなものを交換して、行きかって、おだやかに暮らしていたのかな・・・。そんな人間の息遣いが聞こえてきそうな場所だ。

  

   女神ヘラは、オリンポス山12神のゼウスの妻で、ギリシア神話では、嫉妬深いイメージがつきまとう。だが、もともとは、このバジリカータや、お隣のカラーブリアにあった土着の大地母神の信仰(そのため、この地域は母系社会≒Matriarcatoだったという説もある)を、ギリシア神話が吸収して、ヘラ女神をまつるようになったのではないかという説もある。


 マグナグラエキアだけで、ヘラ神殿はメタポントのほかにクロトーネやパエストゥムなどいくつもあり、その礼拝の場は「ヘライオン」と呼ばれていた。


ヘラ神殿の立面・平面図

 

 これは、私の想像に過ぎないが、日本がもともと土着の信仰で神道を持ちながら、海外からきた仏教を受け入れたように、ギリシア人がこの海岸にたどりつくはるか前から、この土地に居た人びとが信じていた、大地母神をまつっていた聖なる場所に、後から来たギリシア人たちが、ヘラをまつる神殿を建立して、「上書き保存」したのかもしれない、とふと思った。


古代ギリシア本市からマグナグラエキアに移住した人びとがいた。 

 ずっとこの場所に留まり、歴史に浸っていたかったが、ガイドのミケーレ氏の予定では、10分だけの約束なので、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。まだ発掘の途中らしく、人が入れないようにロープが張ってある箇所があった。


 このヘラ神殿を含めて、ターヴォレ・パラティーネ(パラディーノのテーブル)と呼ばれるこの場所は、「ピタゴラスの学校」あるいは「ピタゴラスの椅子」と呼ばれていたらしい。偉大な哲学者で数学者で天文学者でもあったピタゴラスとその弟子たちも、ここに集って、集団生活を送りながら、地球とはなにか?(この時代にすでに地動説を唱えていたらしいが、門外不出の秘密とされていた)人間とは何か?などと議論しながら、学問を探求していたのだろうか。


 この考古学地域は、いずれ、私のようなエノツーリストを含めて、沢山の歴史好き・考古学好きが訪れる日は近いだろう。そんなポテンシャルを感じる場所から、バジリカータの旅が始まった。


このあと大雨が降ったので、運が良かった。

往時は、色鮮やかな漆喰や瓦や魔よけの焼き物で華麗に装飾されていた。

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